スタッフブログというタイトルでブログを始めてまいります。スタッフそれぞれの日々の雑感や、昔見たDVDこれはオススメ、あの作品の時は・・・などなどです。ぜひご覧ください。



監督回顧録

アレヨアレヨというまに、職業映画監督になった僕。
人気絶頂の細川ふみえさん、惜しくも亡くなられた飯島愛さんらが花を添えてくれた「ファンキーモンキーティーチャー3康平の微笑」(当時大ヒットしていた、氷の微笑のパロディー)はなぜか、まずまず出来栄えだったが、自分ではビギナーズラック、と思うようにしていた。僕は、映画監督じゃない、リリーフ役だと思っていた。
またまた続編となった「ファンキーモンキーティーチャー4高校教師」の監督は、我が社の若きエースのY君を抜擢した。彼の緻密な映像作りには、前々から注目していたので、ここぞというその時に投入した。「JFK」を思わせるようなカットが続くのだが、寛平さんの型破りの演技がうまくハマった。これで、Y君をエース監督にプロデューサーの僕と、Y、市川のコンビでヒット作を作るぞ、と意気こんだ矢先、Y君は次回作の下見の時、事故で20代の若さで亡くなってしまった。僕の落ち込みようは、半端なかった。
しかし、悲しみ暮れている時ではなかった、次回作の監督は・・・
結果、再びメガホンをとることになった僕。
「新・ファンキーモンキーティーチャー〜どつかるたるねん」、これは僕の中でも、最も好きな映画だった。寛平さんが主役なのだが、今までの寛平さん中心の物語を、生徒を中心にしてみよう、それが寛平さんをもっと上のステージに上げることだと考えた。
学生の主人公に、ナイナイや雨上がりに決死隊に大きな影響を与えたという漫才コンビ、ベーブルースの河本栄得君を据えた。彼のとぼけた演技と相方の高山君の軽妙な芝居、ヒロイン役の映画初出演の篠原涼子さん、そこにベンガルさん、布川敏和さんが絡み、最高に楽しめる映画になった。僕の思惑は当たった。しかし、とても悲しいことに、残念ながら河本君は、25歳の若さで亡くなった。次回作も一緒にやろうって約束したのに。
そこから、優秀な若者を続けて失った僕の弔い合戦が始まった。
この作品で初めて、映画の監督の仕事がわかったような気がした。いままで、映画は監督次第と思っていた、僕の概念を見事に打ち破った。映画監督は、オーケストラの指揮者なんだ。そこを間違うと映画はつまらないものになってしまう。
撮影のプロ、照明のプロ、ギャグを考えるプロ、プロが集まる集合体に、監督の思いだけで作っては、とても小さなものなってしう。しかし、日本には、いまだ監督至上主義がはびこっている。
映画の改革を目指して、そこから僕の怒涛のような監督人生が始まった。

DVD発売記念で、「万年筆」からの、撮影裏話や、こぼれ話を書く予定が、いつのまにか、自分史になってしまいました。もうすぐ、作品の裏話に戻りますが、もうちょっとお付き合いください。
寛平さんから話があると言われて、僕は恐る恐る待ち合わせ場所に行った。
当時のマネージャーのNさんと赤坂で、お茶を飲んでいました。
「誤解しないで聞いてください、ワガママ言っているんじゃないですよ。寛平さんの演技は、演出という枠にはめられると、面白さが半減するんじゃないかと思って、せっかく面白いシリーズになりそうなので、寛平さんの自由に暴れる場を考えてくれませんか?」とマネージャーのNさん。
「なるほど・・・」
確かに僕も少しはそのことを感じていた。しかし、どんな方法論があるというのだろう・・・
「市川さん、あなたが監督してみへん」いきなり寛平さん。
「はぁ?」
「ええやないの、一緒に作りましょうや」
「僕もそんなふうに考えていたんですよ」Nさん。
「・・・」
「やろうや」寛平さん
「僕もアイディア、いっぱい考えますし」Nさん。
「決まりやな、ほな、なんか食べに行こか」
マネージャーのNさんは、すごいアイディアマンで、寛平さんを思う気持ちは本当にすごいもんだった。
「やってみるか」
後先何にも考えない僕の、なんとも早い決断である。
もちろんその夜は、大いに赤坂で盛り上がったのは言うまでもない。
台本もでき、古い付き合いのスタッフに声をかけ、初監督だけど宜しく頼みます、てな訳で、市川組(映画の場合、監督の名前をつけてそう呼ぶ)がスタートした。
日本の映画界は監督至上主義なので、プロデューサーの時は考えても見なかった、衣装合わせ、美術打ち合わせ、カメラマンとの打ち合わせ、ロケ地の下見などなどこなし、台本にはびっしりとカット割りし、初日の前の晩には「ヨーイ、スタート!」にするか「ヨーイ、ハイ!」するかで悩んだり、いよいよ、最初のロケ地に向かった。
いきなり、大阪で活躍している女優の紅萬子さんが階段からこけるところ。道路を歩く足のヨリ、歩くバックショット、気がつく目のヨリ、つまづく足のヨリ、引きの絵の中で、倒れそうになる紅さんのヒキの絵、
夕方の設定なので、夕陽がワンカット、スローモーションで倒れるヨコのショット。倒れた後の上からの全身、そして顔のヨリ、その顔には、鼻血が出ているアップ。カメラマンから、これで半日終わりますよ。もっと少なくしてください。そりゃそうだ、3週間で撮らなければいけない作品だ。結局3カットで終わった。監督デビューの苦い思い出だ。
こんなふうに、アレヨアレヨというまに、職業、映画監督になった。

還暦も過ぎ、ビールを飲みながら、ふと自分の監督人生を考えた。僕の人生に映画監督なんという選択肢はあったのだろうか・・・プロデューサーとして、日本映画界にコメディー映画を、というだいそれた思いでのぞみ、取り組んだ作品が、ヤングマガジンに連載していた「ファンキーモンキーティーチャー」だった。大阪が舞台の、ハチャメチャな先生がハチャメチャな学園生活を送ると言う、ギャグマンガだった。面白かった、あまり漫画を見ない僕でも抱腹絶倒、噂によれば紳助で映画化するということで進んでいたらしいが、ボツになったと言うことを聞き、すぐさま、講談社へ飛んで行った。
「映画化させてください」
当時は、あまり漫画を映画化するといことがなかったらしく、すぐにゴーサインが出た。主役は誰がいいだろう?そんな時、別な映画の打ち上げで、間寛平さんあった。東京進出をしたばかりで、まだスケジュールに余裕があると言う。もともと僕は、吉本新喜劇の大ファンで、大阪に行くたび、時間があると梅田花月に行っていた。特に、新喜劇の寛平さんの大ファン、筋金入りなのだ。
「ファンキーモンキーティーチャー」はポニーキャニオンと共同で、間寛平さん主演で製作した。吉本の若手の芸人さんが、生徒役でたくさん出演してくれて、しかし、さすが吉本、芸人さんの時間があまりない。早撮りできる人、そこで、映画は監督したことがなかったが、「太陽にほえろ」「あぶない刑事」など、テレビドラマで早撮りの名人がいると聞いてお願いした、手銭弘喜さんだった。実はこの方から僕はすごい影響を受けた。撮影にとにかく無駄がない、そして、与えられた環境の中で、見事にさばいて行く。ご自分お頭の中に撮影方法が出来上がっているのだろうが、しかし、凡人はどこのシーンで、どのカットを撮っているのは容易に理解できなかった。とにかく頭のいい方だった。
そんな手銭監督が、一度だけワガママを言った。大阪阪急電車での撮影時に、用意した高校生のエキストラが足りないと。
「とは言われても、今から無理です」と僕。
珍しく自説を曲げない監督が、言い放った。
「じゃあ、撮影は中止だ」監督。
わかりましたと言うことで、三宮で高校生を探す、なんとか十名ほど集まったが、まだ足りないと言うので、中年の僕まで高校生エキストラをやった。出来上がって見ると、確かに通学時の混み合った電車の車内風景である。
手銭監督は、その翌、翌年に亡くなられた。ご家族の方から、手銭さんは、夢だった映画監督を一回でもやれたことを誇りにしてくれていたようだ。僕はすごく嬉しかった。
「ファンキーモンキーティーチャー」は、まずまずの成績を残し、2作目は別の監督にお願いし、これまた上々の成績だった。さて、3作をお願いに行った時、
間寛平さんから、折り入って話があると言う。その頃、寛平さんもテレビに引っ張りだこで、時間が取れなくなったのか・・・
僕は恐る恐る待ち合わせ場所に行った。

「桜田門内の変」が終わって、虚脱状態の僕のところへ、福井のケーブルテレビ局が、低予算ならば、映画を作ってみたいというお話が・・・またまた、映画撮りたい病の僕は、福井へと向かった。
まだ北陸新幹線もできていない頃、横浜から、福井に行くには二通りの行き方があった。東海道新幹線で行くか、上越新幹線でゆくか、富山、金沢へ良く行く僕にとって、やはり上越新幹線だった。東京から二階建ての上越新幹線、何車両目だったか、上がグリーン席で、下が普通席、この車両が苦手だった。上から目線を感じるのは、僕だけだろうか(笑)。“はくたか”で金沢まで二時間ちょっと。越後湯沢での乗り換えが8分、その間に缶ビールを買って、お弁当を買って、笹団子を買う。
一時間に一本の“はくたか”にもかかわらず、2013年頃の昼間は空いていた。まだまだ、北陸ブームには程遠く、のんびり二席を占拠し、ビールを飲みなが車窓を見る。初夏の湯沢の町のスキー場付近の街並みは、なんとも間が抜けた感じだった。豪雪で有名な湯沢、冬の湯沢を車窓から見るのが好きだった。程よくあったかい車内から見るスキー場は、スキーに熱中していた30代の頃を思い出す。
還暦も過ぎ、ビールを飲みながら、ふと自分の監督人生を考えた。僕の人生に映画監督なんという選択肢はあったのだろうか・・・


桜田門内の変って?

2011年の暮れも押し迫ったある日日、僕のところへ、渡辺裕之さんから連絡をいただいた。
「監督、水戸でも“万年筆”みたいな映画ができないかなぁ・・・」
「できますよ」間髪容れずに僕。
「水戸知ってる?」渡辺さん。
「まぁ・・・」と僕。
「一度、水戸見に来てよ」渡辺さん。
映画撮りたい病の僕は、今すぐ、しかし、年明けということで。
翌2013年、渡辺さんが水戸で仕事あるという日に、鶴見から水戸に向かった。京浜東北で品川まで行ってJR特急ときわで一路、水戸へ。ちょうど梅のシーズンで、この時期だけ水戸偕楽園前という駅に特別停車するので、そこから歩いてすぐのところで仕事をされているという。綺麗な水戸梅大使の歓迎を受けて、僕だけじゃないですよ、駅に降りた方、全員にです。
そして、初めて仙波湖を見ました。とても素敵な湖で、そして、渡辺さんが連れて行ってくれたところが映画「桜田門外の変」で使った、大きなセット。実物より一割り小ぶりだということ。そこで、僕は閃いた。
その後のことは「桜田門内の変!?」のホームページの撮影裏話で、多少誇張もあるが、ほぼその通りに書いてあるのでご覧ください。
http://sakuradamonnai.info/notes/index.html
この作品でも、相変わらず、低予算で引き受けてしまい、結果は会社的には悲しいお話。でも、この「桜田門内の変!?」は大好きな作品です。よく、この内容で渡辺さん受けてくれましたよね。竹内さんの役は、当時話題になった厚生省の官僚、村木さんを彷彿とする、水戸市役所の観光課の係長。本来水戸弁が上手な渡辺さんは標準語、竹内さんはコテコテの水戸弁。地元出演者のみなさんの協力で、非常にうまくこなしているそうです。ほのぼのとした作品です。

 

さて、上映も終わり、気が抜けてぼーっとしている時に知り合いの方から、福井のケーブルテレビ局が、低予算ならば、映画を作って見たいというお話が。またまた、映画撮りたい病の僕は、福井へと向かった。


2011年はやっぱりターニングポイントだった

僕にとって、2011年は大変な年だった。ある意味で、ターニングポイントとなった年だった。明治の実業家、浅野総一郎の映画化が終わり、浅野総一郎がその化学者としての資質に目をかけた高峰譲吉の生涯を描く二部作目「TAKMINE」の関係者完成試写が、311日、銀座八丁目の高速道路の下にあるビルの地下室にあるTCC試写室で午後3時から行われようとしていた。当時、政権の座にいた民主党の前原誠司衆議院議員も駆けつけてくれて、さあ、これから始めようとしたその瞬間、激しい揺れが起こり、小さな試写室に満員の関係者に強い動揺が起き、誰かの指示ということでなく、とにかく外へ、外へ出ようと、大きく揺れる中、狭い地下の廊下を壁にぶつかりながら、這々の体で表に出た。外では、建物が大きく揺れ、壁が落ちてくるところがあったり、人々が恐怖のどん底にいた。右往左往する人たちに、おちついて避難を促す前原さん、そんなに長い時間ではなく、大きな揺れも収まり、試写を再開しようとなったが、五日前まで外務大臣をされていた関係で、残念ながら前原さんは官邸に飛んで行った。前外務大臣に高峰譲吉や、なぜワシントンに桜を送ったかの真実を見てもらいたいという願いは叶わなかった。そのあと、主演の長谷川初範さん、渡辺裕之さんは、まるでジェットコースターに乗りながらの映画試写だったが、最後まで見終えた。そして、その帰りの大変だったことは、多分みなさんもご存知のことでしょう。その年の6月には「TAKAMINE」の東京での公開も終わり、偉人伝の映画の製作や公開の難しさを知り、新しい何かを模索している時の地域密着型映画第1作となる「万年筆」を製作し、その公開も終わり、そこでまた低予算映画の難しさを知り、僕の最初の就職先であるTVKテレビ(昭和47年に開局、一期生として入社、14年間の勤務のあと退社)のかつての同僚や、後輩たちが、TVKテレビの幹部となり、あるなんとも言えない焦燥感、その上、製作会社の経営者と監督の両立の難しさを知ったところだった。何を見ても、何を聞いても、素直に反応できない自分がそこにいた。そんな時、その年、大きくブレークしたレディ・ガガの「 Born This Way」=こうなる運命の元に生まれて来た、この曲のビデオを見て、聴いて、自らの主張をこんなにエンタテイメントに表現する。すごい刺激だった。

 

2011年も押し迫ったある日、そんな僕のところへ、渡辺裕之さんから連絡をいただいた。「監督、水戸でも“万年筆”みたいな映画ができないかなぁ・・・」


皆様ありがとうございます。

できるかなぁ・・・とりあえず、「今すぐ使えるかんたんJIMDO 無料で作れるホームページ」(技術評論社刊)を買い求め、ホームページに挑戦して見ました。富山から横浜に戻ってひと段落し、富山、水戸、福井を舞台にした地域密着型映画を、なんとか日本の皆さんに見ていただきたく、手作りでDVD化をしてみました。果たして、誰も知らないこのホームページにアクセスしてくれんだろうか、半信半疑でスタートして、ちょうど今日で1週間経ちました。ネット上にショップを持つ、ちょっと前まで、神業だと思っていました。カード払いもできる、すごいじゃん。おかげさまで、20名の方からオーダーをいただき、毎日、スマートレターで、お送りさせていただいています。そして、見ていただけると思うと、とても興奮し、なんだか嬉しくてたまりません。撮影した地域の方だけかと思っていましたが、東京、大阪、千葉、そしてアメリカの方などからオーダーいただきました。ネットってすごいですね。家内制手工業なので、不細工なところもあると思いますが、一緒懸命作っています、お許しください。お送りした皆さんからの感想やら頂ければ幸いです。私のメールアドレスも書いてありますし、FaceBookでも結構です。それぞれの地区で撮影させていただき、いまだ熱い交流を持たせて頂いてる方や、その後疎遠になった方々といろいろですが、そこに一緒に作った作品があることは事実です。そして、その時の熱気が蘇っきてくれれば幸いです。

 


週末にこんな映画はいかが・・・

市川が押す、見て損はさせないDVD vol-1

2006年スイス映画「マルタのやさしい刺繍」

スイスの山の中の片田舎の村。夫の死後、何もやる気のなくなった80歳のマルタが、美しいレースを見ているうちに、自分も作ってみようと思い立つ。マルタの友人たちは応援するが、息子や、旧態依然とする男たちは反対する。

これ以上書くと、ネタバレになるので物語は見てのお楽しみ。女性への抑圧や、高齢者に対する冷たい視線、地味なテイストの映画だが、メッセージをゴリ押しにするのではなく、見事にエンターテイメント溢れる作品に仕上げている。

ウキィペディアには、コメディー映画と書いてあるけど、そのカテゴリーでくくって欲しくない作品です。日本では、2008年のミニシアターランキング洋画部門で興行収入一位を獲得した作品です。

漫画原作の映画化、主演はイケメン俳優、変わりばえしないストーリーの恋愛映画など、この国において、80歳のおばあちゃんを主役にするエンターテイメント映画の企画など通るすべがない。倉本聰脚本の連続テレビドラマ「やすらぎの郷」に期待するが、結局年とった大物女優を、数多く並べなくてはダメなんだろうな・・・

保険のCMにラグビーのオールブラックスを起用する発想をできる人がいる国の割に、映画界は貧弱ですね。


あの時の氷見

2011年、氷見の方から氷見フィルムコミッションを立ち上げると言う。寒ブリだけでなく、フィルムツーリズムで氷見の良さをアピールすると言う。ならば、氷見を舞台に映画を撮りましょうと、僕。皆さんの努力で制作費を集めていただいた。その額に動揺する僕、スタッフは不可能です、と言う。でも、大丈夫と言っちゃった。そこから、スタッフは頑張ってくれた。まず、主人公二人の俳優さんだ。女優さんは前年に撮った「さくら、さくら〜サムライ化学者高峰譲吉」に、短いシーンながら出てくれ、素晴らしい演技を見せてくれた竹内晶子さんに頼んでみた。快諾を得た。男優だ・・・そうだ、ヤクザ映画時代にご一緒した、ファイト一発の渡辺裕之さんに、笑われるようなギャラは無視してお願いした、やはり快諾を得た。どうしたら低予算でできるか、まず録音部は無理と判断し、すべてアフレコ。これが、後で大変なことになるのだが。とにかく、スタッフは最小限で、助監督と制作部は一人、衣装は自前、宿泊はごろ寝、文句も言わずに皆やってくれた。といっても、他にも沢山の役がある、特に重要なのは刑事とその部下だ。とても、東京から呼ぶすべもなく、地元の方に、刑事は、現在観光協会長の松原さんに、その部下には、現在富山で俳優養成をしている大石君に、その二人を、渡辺さんは一生懸命指導してくれた。僕が、赤いスポーツカーが欲しいと言えば、氷見の洋菓子屋さんのパティシエの車を手配してくれた。そしてそのパティシエさんがヤクザの親分役で出演してくれる。どこの現場に行っても、氷見の皆さんがたくさん集まって手伝っていただいた。地元の新聞も毎日のように取材してくれた。気がつけば、予算なんて、とうにオーバーしていた。アフレコした音にノイズが、秋葉原のスタジオを三日間も独占し、ポスター、チラシ、配給費、宣伝費、当然大赤字。松原さんや、氷見の皆さんの応援で、数年後にやっとの思いで処理できた。でも、僕はそこで地域密着映画の魅力にとりつかれた。メジャー監督を目指すのではなく、地元の皆さんと一緒に映画を作り、地元が一つになる、これぞ地方再生の起爆剤になればと言う思いで、その後7作品も製作した。満足に黒字になった作品はないが、それ以上に素晴らしい人間関係を得た。もちろんの意見の違いから疎遠になった人もいるが、70歳を目前にした僕にとって、なんの後悔もない。

今回DVD化するにあたって、久々に「万年筆」をみた。ヨーロッパ調のテイストと、渡辺、竹内、両怪優の演技に脱帽した。富山を代表する歌手の林道美有紀さんのオープニングテーマはしみる。少しだけれども出演もしてくれた。白井さん曲も随所で素敵だ、これが縁で、白井さんと富山の付き合いが濃くなったと言う。素敵なことですよね、人と人がつながっていくって言うのは。

もうなくなった氷見の道の駅が、とても懐かしい。映画はいいですね、その時代をきっちりと残してくれる。「万年筆」ぜひDVDでもう一度ご覧ください。

 


監督のつぶやき

「急にどうしたの?」と、友人。

「何が?」と、僕。

「昔の作品をDVD化しているけど?」

「実はね、僕ももう直ぐ70歳。そんな時、「万年筆」に出てくれた方が、DVDにはならないのですか、という質問を受けた。御免なさい、その予定はないんです。一枚で結構ですから、費用はお支払いしますので、いただけませんかと、その方が。

地域密着型の映画を撮り始めて9本になったんだけど、DVD化したのは二本だった。それも、地元の方々の要請で作ってきた。要請のないものは、僕の心の中で生き続ければいいと思った。DVDにするには費用もかかるしね(笑)。」

「心境の変化?」

「まぁ、 最近引越ししたんだけど、ヤクザから画家に転身した赤富士で有名な山本集画伯から貰った水彩画が出てきたんだ。そこに”この道も あの道も 思い出残る 人の道”って書いてあったのさ。僕にとっての思い出と同じように、ほんの少ししか出ていない方だったが、その方の思い出でもあるんだ。ジャケットが手作りで体裁が悪くとも、欲しいと言われる方に、一枚づつ手作りでも、映画は中身が重要なんだと、思ったのさ。」

「そうだったの」と、友人。

 


今日から、reViveのホームページにブログを開設しました。ぜひご覧下さい。

https://e.jimdo.com/app/s064e331e80ff0def/p7a1241d01ad71a56/?cmsEdit=1